2017年5月28日日曜日

毎年同じ場所で桜を撮ること

こんにちは。
初夏ですね。清々しい風が吹きつつも、関東の海側はちょっと暑いな、湿度を感じるなという日が多くなってきました。

今日は「毎年同じ場所で桜を撮ること」についてお話ししようと思います。時期はずれですが、どうぞお気になさらず。

桜の時期、私の仕事はちょっと忙しくなります。なのでタイミングが合わないと、盛りの時期を過ぎて慌てて撮ることも。今年もそうでした。

私が愛用のフィルムカメラで桜を撮りたい!と思うのは、気に入った被写体に出会った時です。まず被写体ありきで、その後に被写体の周りをグルグル歩きながら次のことを考えます。

  1. 光量はどれくらいか(後で露出設定を決める)
  2. どのくらいの撮影距離をとるか
  3. 足場の確保は出来るか
  4. 風の強さは撮影可能なレベルか
  5. 構図をどうするか

これらが全てクリアされてから、初めてシャッターを切るかどうか判断します。気持ちが僅かでも乗らない時は、無理してシャッターを切るようなことは極力控えるようにしています(十分な撮影時間が確保出来ない時は妥協して撮ることも)。

毎年同じ場所で桜を撮っていると、これ去年も撮ったな、毎年同じような写真になってしまっているな、などということも出てきます。今年はそれをまざまざと感じました。

Rolleiflex 2.8F Planar
Kodak Ektar 100


特にある程度自己満足度の高い写真を撮れるくらい、知識が技術として身についてきた時にそう思うことが多いです。

そう思った時、達成感を得てその被写体(今回は桜)を卒業するか、それともそこから更に新しい課題を見つけてそれをクリアすることを目指すか、どちらかになると思うのですが、私は今回後者を選ぶことにしました。

Rolleiflex 2.8F Planar
Kodak Ektar 100


毎年同じ場所で桜を撮る。そこを変えずに新しい課題を見つける。そうなると思い浮かぶのは、新しい表現方法や技術を取り入れることです。その為には色んな方のお写真を参考にするだけではなく、一見すると桜と全く関係ないようなことでも積極的にインプットしていくことが大事なのではないかと、そう考えています。

Rolleiflex 2.8F Planar
Kodak Ektar 100


普段から色んなことをインプットするよう意識しているつもりでも、人間は「慣れ」てしまう生き物です。刺激を受けまくっている生活が日常化すると、いつしか刺激は刺激ではなくなります。そしてそのことに気づくのは意外と簡単ではないように思うのです。

頭を切り替えるには何かしらのきっかけが必要で、それはある程度引いたところから自分を見つめられた時に得られるのではないでしょうか。自我よりも自己を意識出来た時がチャンスかもしれませんね。

ではまた!



2017年4月29日土曜日

印象の違い

こんにちは。

早い方は今日からGWですね。毎年あちらこちらで言ったり書いたりしていますが、我が家はGWとともに繁忙期に突入するので、お休みどころか遊びに行けないHW(ハードウィーク)となります。頑張ります。

ってことで今日は簡単に写真だけ。

ちょっと気合いを入れて「撮影しちゃうぞー!」というとき、私はカメラを複数台持ち歩くことがあります(毎回ではありません)。ほとんどの場合は被写体に応じて使い分けるのですが、たまにどうしてもどうしても興味を引く被写体に出会ったとき、手元にある全てのカメラで撮影することがあります。この写真を撮ったときもそうでした。

Rolleiflex 2.8F Planar
Kodak Ektar 100

ASAHI PENTAX KX
(XR RIKENON 50mm F2)
Kodak 400TX
self-developmant
D-76(1+1), 9:45 min at 20℃

いかがでしょう。

ここに到着したときは晴れて良いお天気だったのに、撮り歩いている内にどんどん雲行きが怪しくなり始め、その雲の不穏な感じがとても気になったので、撤退する直前に撮りました。

ちなみに上の正方形の方を先に撮って、その少し後で下の長方形の方を撮りました。時間差は10分もなかったと思います。

どっちがより不穏な感じがするか、または見ていて好きだなと思えるかは、見てくださる皆さんに委ねようと思います。

ではまた!


2017年3月26日日曜日

安易に憶測すること勿れ

こんにちは。

山や里や海辺を歩いていると「生命の死」または「かつて生命であったもの」に遭遇することが度々あります。

いや、山や里や海辺に行かずとも、私たちの周りには死が溢れています。

ヒトのほとんどは命を口にして生きています。動物を食べ植物を食べ、またはそれらから合成されたサプリメントを摂取する。口にするものに限らず、動物や植物の命を使って実験された結果つくられたものに私たちヒトは囲まれています。他の命を全く犠牲にしない生活を送ることは、かなり難しいのではないでしょうか。

反面ヒトは身近な存在の死に過敏になることがあります。情を抱いた存在が命の灯火を消してしまったなら、それは確かに悲しい。けれど、死は命あるものに(形は違えど)必ず平等に訪れるのもまた確かなことです。

先日、とある海岸を歩いていたら、死んだ命に遭遇しました。まだ腐り始めたばかりで、臭いはあまり強くなく、死んで間もない様子でした。

撮影
Rolleiflex 2.8F Planar
Kodak Ektar 100

んでから浜に打ち上げられたのか、生きて浜に上がった後で力尽きて死んだのか。はたまた、もっと思いもつかない理由でここにあるのかも知れません。

死んだ生命に遭遇した時、必ず「可哀想」についても考えます。安易な使われ方をする「可哀想」についてです。

今、目の前に死んだ生命がある。私に見えること、私に分かることはそれだけです。

撮影
Rolleiflex 2.8F Planar
Kodak Ektar 100

だけどヒトは、つい自分の経験データから「死がここにくるまでのストーリー」を憶測し、そして軽い気持ち、または重い気持ちで「可哀想」と思ったり言葉に出したりします。

でも、死がただ目の前にあるだけで、なぜ可哀想に繋がるのでしょうか。

先にも述べましたが、死は実に身近なものです。普段の生活で死を意識しないのだとすれば、それは無意識に、または意識的に気づかないふりをしているに過ぎません。

動物や植物などを食べる時、毎回可哀想だと思うでしょうか。私は思いません。命を頂くという意識と、殺して食べているという自覚と感謝はありますが、可哀想だとは思わない。

そもそも可哀想という感情は、上から見下ろしているように感じられます。憐れむ。それは余裕あるものの特権のように思うのです。

撮影
Rolleiflex 2.8F Planar
Kodak Ektar 100

目の前の死。そして死に限らず全てのことにおいて、それがそこに至るまでの経緯を、安易に憶測すること勿れ。そう思っています。

ただただそこに向き合う。寄り添う気持ちよりも、そういうことの方が大切なときもあるのではないでしょうか。

ではまた。